浅野総一郎は日本を発展させた優れた実業家です

1.浅野総一郎ってどんな人物??

国内にはこれまで財閥系と呼ばれてきた企業がいくつか存在しています。
その中には浅野総一郎という人物もいて、1848年4月13日に現富山県の医者の息子として誕生しました。

当初は医師を目指すことを親に推奨されていたものの、それを拒否して養子に出ます。
その後は実家に戻るものの、医者の跡継ぎは姉夫婦に任せることになり、浅野総一郎は海産物を販売する事業を開始しています。

船を使って北陸地域へと販売をしてきましたが、船が遭難被害に遭ってしまい、多額の資産を失ってしまいます。
普通の人物であれば、この時点で商売を諦めてしまうことが多いものですが、23歳の時に上京を果たして、その地域で今で言う飲食業を開始しました。

夏の暑い季節には砂糖を入れた冷や水を販売していて、冬の寒い季節になると、温かいおでん屋を経営しています。
後に横浜に渡り、当時は贈答用の包みとして利用されていた、竹の皮に興味を抱くことになり、直後に竹の皮の製造販売に着手し、見事に成功を収めました。

さらに、1873年には石炭や薪炭の製造販売に乗り出していて、ガス会社に出入りしているうちにコークスやコールタールの存在を知ることができ、コークスはコンクリートの製造に役立つことを研究し、これが大富豪になる初めての商いとも言える内容です。

2.浅野総一郎の先見の明とは?

当時は木造建築が多かったものの、浅野総一郎は将来にセメントを使う機会が国内でも増加するという先見の目を持っており、それが見事に的中したことになります。

1884年には払い下げの企業を購入し、浅野セメントを設立しています。
浅野セメントは今でもその継承者が別企業として運営をしている大きな企業です。

発電所や鉄道などの設備の施工にも貢献をしていて、後に海外に渡っていますが、その際に見た諸外国の港湾の発展振りに興味を持つことになりました。
実際に国内に戻ってからは、東京と横浜の港湾の造成に尽力しています。

このことをきっかけにして、後に近代化された港湾として臨海工業地帯を作ることに成功しました。
浅野総一郎は最初は海産物の商人でしたが、セメントなどを扱うきっかけを得たことにより、戦時中にも恩恵を受けています。

財閥系企業と言われる所以については、1つではなくいくつもの事業に乗り出していることを挙げられます。
工場系の他にも運送業なども事業として発展させていて、造船所の他にビール会社、映画会社、自動車会社など数多くの事業に携わってきました。

3.浅野総一郎が作った会社は15財閥の1つに数えられる

現在では浅野という名称が使われている場所がいくつかあり、歴史に十分に名を残した有名な人物でもあります。
学校法人や鉄道、駅やダムなどいくつかの場所において、未だに名残りを残していることも事実です。

浅野総一郎が作った会社は今では国内において15財閥の1つとして知られており、名称は変わっているものの、今でも有名な総合商社、セメント会社、製鋼会社、建設会社、運輸会社などがメインとして活動をしています。

これだけの数多くの事業を発展させることに関しては、普通の行動力では不可能と考えることができます。
若かりし日から商売に興味を持っていて、失敗をしてしまっても、くじけずにチェンジし続けたことや、周囲の人物にも恵まれたこと、最も肝心なことが本人に優れた経営能力と学習能力に長けていたことなどが成功の鍵といっても過言ではありません。

戦前の古い時代に興した事業が西暦2010年を大きく超えた現在でも進化し続けていることについても優れた実績を残した証でもあります。
経営が上手くいかずに手放した事業が存在していることも事実です。

4.浅野総一郎は日本という国を近代化させた実績も豊富

その中には銀行が含まれており、現在での財閥系企業の多くは銀行部門を持っているものですが、払い下げを行った経緯のある銀行はその後にも取引を継続していて、かなり良好な関係を築いていることも真実です。

今現在では新しい事業を展開し、尚且つ財閥系の企業のように、手広く商売をすることは非常に難しい傾向にあります。
その理由として国内には数多くの信頼される企業が既に存在していることを挙げることができます。

その信頼される企業の中にも、浅野総一郎が基礎を作った会社があり、多くの国民が知らない間に何かしらの方法や、生活上、若しくは社会生活上でも関わりを持っている可能性が高いものと判断することも可能です。

注目したいポイントというものもあり、創業者本人やその社員や関係者だけが儲かるという事業ではなく、日本という国を近代化させた実績も豊富にあることが最大の特徴です。

国が豊かになることで幸せを感じる国民が増加したことも事実になり、今でも関連するグループ企業は活躍を見せているので、国にとって十分に貢献できる仕事をしてきたと判断できるのではないでしょうか。

1930年に死去した後には、現在でも横浜の浅野学園の敷地内にはかなり台座が高めに作られている上に立派な銅像が建てられており、訪れる人々を魅了しています。

浅野総一郎逮捕より一部抜粋